清里タイムライン

清里タイムライン

旧石器時代縄文時代 念場原から隣接する長野県の野辺山にかけておよそ1万6千年前にさかのぼる旧石器時代の遺跡が分布する(丘の公園内遺跡群)。旧石器時代から縄文時代草創期初頭のナイフ形石器や槍先形尖頭器、削器や掻器、石錐などの石器類が出土
平安時代 念場原あたりは甲斐の3御牧(勅旨牧)の1つ柏前牧(かしわざきのまき)があり、毎年真衣野(まきの)牧と合わせて30疋の駒を朝廷に貢上した
中世時代 清次というものが念場原(樫山村)に新田を開き、繁栄して「念場千軒」と言われた。後に集落が離散し、その一部が浅川村を開いたとされる
江戸時代 今の清里周辺は「風切りの里」と呼ばれ、厳しい自然風土を乗り越えるため、雨乞いを八ヶ岳権現神社に、晴天を日吉神社に、暴風雨よけを風の三郎社にお参りする「三社参り」の神事が盛んに行われた
明治時代 1873年 明治6年 11月25日 津金学校清里分校を千福寺( 樫山村)で開校する
1875年 明治8年 2月15日 巨摩郡浅川村・樫山村が合併して清里村となる。役場を旧樫山村に置く。明治8年人口226戸1000人。当時は弘法坂から信濃へ抜ける「佐久往還」がにぎわう。長沢宿と平沢宿の中間にある「国堺」が宿場として栄え、旅館業蓬莱屋が営業
1878年 明治11年 7月22日 郡区町村編制法の施行により、清里村は北巨摩郡の所属となる
1886年 明治19年 ドイツの地質学者ナウマンが日本列島の地殻の割れ目を発見し、フォッサマグナ(巨大地溝帯)と命名する論文を発表。ナウマンは政府の依頼で全国の地質調査を行い、軽井沢から清里村に到達した所で、南アルプスの山々が屏風のように屹立している様をみて、大地がここで割れていることを直感したとされる
1891年 明治24年 5月1日 津金学校清里分校より清里尋常小学校が独立して開校
清里村外3村の入会地だった念場原へ清里本村・樫山から開拓入植が始まる(三軒屋のはじまり)。当時の地番は北巨摩郡清里村字樫山念場原3545番地で、明治維新により官有地となっていた。
大正時代 大正中期 洋乳館が清里の原野を牧柵で囲い、夏の間だけ乳牛の放牧を行う(今の学校寮あたり)
1925年 大正14年 4月1日 清里尋常高等小学校となる。
昭和時代 1928年 昭和3年 美し森山周辺のツツジ大群落が景勝地として注目される。山梨県が躑躅群落記念碑を建立
1930年 昭和5年 世界恐慌が日本にも及び、金解禁による不況と相まって昭和恐慌が発生。農業も恐慌の打撃を受ける
1931年 昭和6年 清里駅開業を前に鉄道建設業関係者を対象に、こしまや、明月館などの旅館、豆腐屋、運送店などが駅前に開業する。(清里駅前商店街のはじまり)
1932年 昭和7年 7月 東京市会で帝都に水を供給する小河内ダム築造計画が決定。ダム建設で誕生する小河内貯水池により東京府小河内村と山梨県丹波山村・小菅村の一部が水没する計画で、建設用地の買収交渉が始まる(水没犠牲農家の清里村集団入植の端緒)
1933年 昭和8年 7月27日 佐久鉄道により小海線 小淵沢駅−清里駅間が開通し、開業。旅客・貨物の取扱を開始。鉄道の開業で佐久往還の牛馬輸送が衰退し、鉄道が輸送の主役となる。
清里駅は-八ヶ岳山麓の木材伐り出しでにぎわう。
清里駅は-八ヶ岳山麓の木材伐り出しでにぎわう。
清里駅の標高は1275 m。開業からおよそ2年間は清里駅が全国の鉄道の中で最高所の駅だった
昭和の農村恐慌を打開するため、全国で未墾地の開拓の機運高まり、山梨県が清里村120余町歩を開発する県営八ヶ岳開墾事業計画を樹立
1934年 昭和9年 日本国有鉄道が佐久鉄道を買収し、清里駅は国鉄に移管する
11月29日 清里駅から信濃川上駅までが開業して、小海線が全線開通。野辺山駅が日本国有鉄道の最高所となり、清里駅は全国2番目となる
1936年 昭和11年 4月 後に八ヶ岳区開拓の「父」と呼ばれる安池興男技師、山梨県経済部耕地課勤務。
8月11日 清里村に山梨県営八ヶ岳開墾事務所が開所、所長に安池興男技師が着任。所在地は清里駅の南に徒歩5分
晩秋の頃 立教大教授ポール・ラッシュが青少年指導者訓練キャンプ場の建設用地を探すため清里村美し森周辺を視察。甲府談露館主人の中沢三鶴平、日本通運清里営業所の輿水忠一所長の案内でキャンプ地に決める
12月 ラッシュ教授と日本聖徒アンデレ同胞会の松浦積会長が山梨県庁で清里村県有地の貸与について交渉を始める
1937年 昭和12年 1月11日 小河内ダムの起工式を挙行
6月10日 東京市小河内貯水池建設事務所庶務課長が山梨県庁に来訪。水没犠牲農家の救済のため県営八ヶ岳開墾事業での協力を要請。県は善処を回答
6月20日 朝鮮王族李王同妃が清里大ツツジ群落の見学に訪れる。小海線開通で清里のツツジ群落は全国的にも知られる
9月5日 丹波山村守屋栄作助役の引率により丹波山・小菅の水没犠牲農家代表28名が八ヶ岳開墾地を視察。安池興男所長が現地を案内
10月8日 安池開墾事務所長が丹波山村酒井孝治村長宅で入植条件を提示。農家1戸あたり畑2町5反、水田1反2畝を反当り小作料50銭。標準農家建築費千円のうち公費300円補助
12月 ラッシュ教授が清里村のキャンプ施設を清泉寮と命名。ただちに渡米し、シカゴに本部を置く在米日本聖徒アンデレ同胞会後援会を拠点に、清泉寮の建設募金ツアーを行う〜〜13年3月まで。日本軍の中国侵略に対する対日世論の悪化で募金は難航
12月18日 山梨県が立教大を母体とする日本聖徒アンデレ同胞会に清里駅北部の県有地3000坪を貸与することを決める。借地料は年60円
この年、作家石川達三が小河内ダム建設による農民の悲哀を描いた小説「日陰の村」を発表。この頃、「湖底の故郷」(東海林太郎歌)が流行する
画家東山魁夷が清里美し森周辺に通い、スケッチに精出すこと10数回に及ぶ
1938年 昭和13年 3月 清泉寮の建設工事に着工。施工は甲府・内藤工業所
4月17日 丹波山・小菅村の水没農家28戸の先遣隊が清里駅に到着、八ヶ岳開墾事務所及び倉庫を改装した仮設宿舎で共同生活に入る。(八ヶ岳地区開拓のはじまり)
6月 開拓農家への第1次耕地の割り当て(1戸当たり5反)。八ヶ岳農事実行組合を組織し組合長に青柳金重を選出。
各農家が配分耕地内に住居を仮設し家族の呼び寄せがはじまる(丸太、杉皮の掘っ建て小屋)
7月 五反歩の区画割りをし、土地内に家の建設始まる。
7月24日 ラッシュ教授が指導する日本聖徒アンデレ同胞会の青少年訓練キャンプ施設「清泉寮」が開設。地元農民は施設を「りっきょう」とよぶ。
清泉寮落成を記念して日本旅行協会(JTB)が国鉄新宿駅から清里駅間で特別観光列車を運行。一般観光客も含め800人が参加。
清里高原観光の始まり
11月 小河内貯水池工事始まる。
1939年 昭和14年 安池所長、農林省耕地課長より広島県栄転の内命を受けるが、開拓農家の救済貫徹を理由に辞退する
8月 清里尋常小学校(樫山)の八ヶ岳分教場(念場ヶ原) の建設に着手。建設資金は東京市小河内貯水池建設事務所より8000円を確保
開墾事務所職員の設計による開拓農家28戸の住宅、通称「千円の家」の建設が始まる〜16年。日華事変の影響による諸物価高騰に苦しむ(現在も数棟残る)
11月1日 須玉町小池平で廃社になっていた祠を遷座し開拓地神社をつくる。(八ヶ岳コモンズ東)
暮れ 八ヶ岳分教場の請負業者が経済能力貧困により工事を放棄し、建設行き詰まる。建設資金も使い果たす
1940年 昭和15年 5月 4月開校の予定を過ぎ、八ヶ岳分教場の完成促進のため入植者一同が高橋六郎の大工技術を頼り残工事に昼夜兼行であたることを緊急決議
安池所長、農事組合の青柳組合長、根津副組合長を伴い、静岡市の実家で父より学校建設の不足経費3千円の融資を受ける
6月19日 開拓農家の奉仕作業により八ヶ岳分教場が完成する
7月25日 清里尋常小学校の八ヶ岳分教場の開校式典を挙行。式場で安池所長、入植者、児童一同万感胸に迫って嗚咽し、只々涙で袖を濡らす
教員2名、児童数51名、複々式2学級編成で授業はじまる
7月25日 日米関係が悪化し、米国聖公会伝道局が在日米国宣教師に帰国を指示。立教大の教育宣教師ポール・ラッシュ教授は帰国を拒否し、日本残留を伝える
ラッシュ教授は立教大の教え子とともに一夏を清泉寮に籠って過ごす
12月 清里郵便局が開業、電報業務も始まる
1941年 昭和16年 県立青年道場「機山寮」が現在の朝日ヶ丘に建てられる。
長野県南牧村に開拓入植していた茅野達一郎氏が清里の八ヶ岳開拓の空き地に入植し、ホルスタイン種による酪農を始める。(清里酪農の先駆け)
6月10日 開拓地神社を御崎大神社として遷座祭典、酒井丹波山村長、安池所長出席。
6月 安池所長、奈良県耕地課長に栄転
10月15日 日米関係の緊迫化に伴い立教大ポール・ラッシュ教授が清泉寮を閉鎖する
12月8日 日米が開戦(太平洋戦争)
1943年 昭和18年 各家で井戸掘り始まる。
茅野達一郎が清里の開拓農家に呼びかけ酪農組合を結成、組合長となる。小峯栄次郎、島崎藤平ら7名が結集。牛乳を小海線で甲府の新海牛乳へ出荷(清里初の酪農組合)
1944年 昭和19年 清泉寮を管理していた立教大学が、伊豆大島の障がい児養護施設藤倉学園に売却。園児が清泉寮に疎開する。藤倉学園は昭和20年10月までに退去し、大島へ戻る
この間、園児10名が栄養失調と寒さで死亡。死を悼み青柳伝兵衛が開拓者墓地の墓をつくる
10月 八ヶ岳地区開拓地の自作農創設事業が完了し、各農家が自作農となる
1945年 昭和20年 〜終戦まで 日本軍の石油不足を補うため、念場原で松根を掘り起こし、松根油の採集が行われる(事業推進の利根川五男は松根さんと呼ばれる)
6月〜9月 食糧増産を目指す未墾地開拓として、山梨県営事業の八ヶ岳集団帰農隊が朝日ケ丘地区入植始まる。
第1次小野宇孝ら約50名、第2次8月34名、第3次9月10名。(朝日が丘集落の起源)
戦災罹災者、外地引揚者、樫山、浅川地区からの移住者などが入植した
開拓農家の住居は地面に丸太を組んで茅や杉檜の皮で葺いた「笹小屋」と呼ばれる掘っ立て小屋だった
過酷な生活に入植離脱が相次ぐ
昭和時代(戦後) 8月15日 昭和天皇が玉音放送、ポツダム宣言受諾と日本の降伏を国民に告げる(戦争の終わり)
清里の青年44名が戦死あるいは戦病死
9月 米国人ポール・ラッシュが、日本復興のため、連合国軍総司令部(GHQ)民間諜報部将校として再来日
10月 鶯谷下から下念場にかけて集団帰農隊約20名が入植。(下念場集落の起源)
1946年 昭和21年 3月 立教大学がラッシュ中佐に清泉寮を返還
安池興男が退官。静岡市西草深町の実家に入る。酒井久重、安池を静岡に尋ね、互いの無事を喜び、交流復活
7月1日 日本聖公会がラッシュ中佐の要請による清里伝道プログラムを開始。宿谷栄、植松従爾の二人の牧師を清泉寮に派遣。礼拝堂を開く
8月 ラッシュ中佐が清泉寮に北巨摩郡の清里、大泉、小泉の村長、役場幹部を招き、「村落共同体生活プロジェクト」を発表。八ヶ岳山麓の北巨摩郡にモデル農村コミュニティーを建設し、酪農など新しい農業を広め、観光開発を行うことを宣言(後の清里教育実験計画・清里農村センター構想)
8月15日 ラッシュ中佐の指令により兵庫県西宮球場で戦後初の全国中学校優勝野球大会が開催される。ラッシュ中佐が開会式で主賓挨拶し、出場チームに白球を贈る。(後の甲子園高校野球大会)
念場ケ原開拓農業協同組合が発足。朝日ヶ丘、下念場の帰農組合を統合する(組合長小野宇孝)
1947年 昭和22年 1月 山梨県がラッシュ中佐のモデル農村センター構想に対して小海線以北の県有地300ヘクタールの貸与を決定
4月1日 学制改革により、清里国民学校が清里小学校( 同校八ヶ岳分教場)と改称。清里中学校誕生
5月3日 国民主権の日本国憲法が施行。ラッシュ中佐が清里伝道プログラムの骨格として、「草の根民主主義」に基づく新しい村づくりを決意
9月1日 東念場開拓に集団入植(19名)。東念場集落の起源
10月14日 昭和天皇が山梨巡幸の折、吉江勝保山梨県知事に八ヶ岳山麓でラッシュが計画しているモデル農村センターへの支援を要請
10月 沢田美喜が神奈川県大磯町にラッシュ中佐の支援で日米混血の孤児養護施設エリザベス・サンダース・ホームを開設。ホーム児童と清里交流の端緒
清里モデル農村センター構想を推進する日本聖徒アンデレ同胞会の活動に対して、米国内で後援会が復活。米国市民による献金が始まる
酪農を勉強する青年たちの「振進会」ひらかれる。
1948年 昭和23年 ラッシュ中佐、清里農村センター(略称キープ)建設に着手。
八ヶ岳観光協会が設立。清里観光祭つつじ祭りが始まる
6月13日 清里聖ルカ診療所の起工式、清里聖アンデレ教会の落成感謝式が行われる。高松宮が主賓として祝辞を述べる。八ヶ岳山麓39町村の役場幹部、地元農民ら300人が出席した
9月 戦争のため中断していた小河内ダムの工事再開
1949年 昭和24年 1月 清里モデル農村センターの実験農場が事業開始。農場長に清里の農民・茅野達一郎が就任。茅野をはじめ地元農民が八ヶ岳の農業改革を目指す「清泉寮農場研究委員会」を設立。近代酪農の研究に着手する
清里の輿水国雄、船木常治、キープ協会に勤務。
7月18日 ラッシュ中佐がGHQを退役。ただちに米国へ帰国し、清里のモデル農村建設事業のための全米募金ツアーを始める。翌年9月まで全米30州をステーションワゴンで巡回する。日系2世の退役軍人らが募金ツアーを支援した
1950年 昭和25年 1月 東京聖路加国際病院の松本喜久江女医、清里聖アンデレ教会の植松牧師と結婚。教会で診療を始める。開拓農民から「喜久江先生」と慕われる(無医村が解消)
5月25日 清里のモデル事業を資金援助するため米国イリノイ州シカゴで、日本聖徒アンデレ同胞会米国後援会が法人化の認可を受け、全米各地で本格的な募金活動を始める
9月11日 ラッシュが14カ月に及ぶ全米募金ツアーを終え、日本に帰国
10月7日 ラッシュが清里村に凱旋する。ラッシュは清里村主催の歓迎式典で浅川勝平村長をはじめ村民に、以後清里の人として、日本の復興に専念することを伝える
清里聖ルカ農村診療所が開設される。植松女医ほか東京聖路加国際病院が医師2名を派遣
1951年 昭和26年 10月21日 米国テネシー州の農民らが寄贈したジャージー登録種牛(ロンリーブル)、アイオワ州の教会信徒が寄贈するジョンディア大型トラクターが清里に到着。ロンリーブルが清里の厳寒の冬を元気に過ごし、高冷地での酪農の可能性を証明
米国の募金ツアーで清里の社会事業を「KEEP(清里教育実験プロジェクト)」と新名称を発表。施設名も清里農村センターに改称 高冷地での食糧増産、農村の保健改善、信仰の確立、青少年の希望を4つの目標に据える
1952年 昭和27年 9月 米国から高冷地農業の支援物資が小海線の貨車で清里農村センターに到着。ジャージー、ホルスタインなど登録乳牛、ヘレフォードなど肉牛などの種牛や農業用トラクター、アルファルファなどの牧草種子、ブロッコリー、レタスなど高原野菜の種子など。農場で乳牛、肉牛の飼育、高原野菜の栽培試験を本格的に開始
このころ、農林省幹部職員が頻繁に清里農村センターを視察し、高冷地農業の新しい体系を学ぶ
1953年 昭和28年 9月 ラッシュが北海道新冠村雲熱布に新冠教育実験計画・新冠農村センターを建設(清里農村センターの姉妹施設)。総主事に清里から八木立三夫婦を派遣。聖フランシス伝道所、新冠農村診療所を開設
10月 農林省は清里農村センターの酪農実験成果とラッシュの助言をもとに国費によるジャージー種乳牛の大量輸入と,酪農による新農業開発を目的とした集約酪農地域建設事業を始める
米国から580頭のジャージー牛を緊急輸入され、このうち144頭を清里村をはじめ八ヶ岳山麓の農家に国有牛として貸し付け配給(清里が日本のジャージー牛酪農の中心地に)
県道甲府–長野線が二級国道清水–上田線となる(後に国道141号)
1954年 昭和29年 6月14日 清里農村センターでの実験成果などを基に酪農振興法が制定。今日の酪農に関する基本法となる
8月22日 第1回清里カンティフェアーが山梨県北巨摩郡、長野県南佐久郡の2つの郡(カンティ)のための高原収穫祭として開催される。八ヶ岳高冷地家畜共進会、優良赤ちゃんコンクールなどが行われ、およそ2000人の農民が参加する(第4回から八ヶ岳カンティフェアと改称、1973年まで開催)
1955年 昭和30年 5月15日 御崎大神社境内に八ヶ岳地区入植記念碑を建立
世界トップの大富豪ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー3世が息子のジョン(4世)と娘のホープとともに清里を訪問。およそ1週間、清泉寮に滞在して清里周辺を探索。ポール・ラッシュと清里農村センターへの支援を表明
11月11日 清泉寮が風呂場の失火から全焼
12月10日 酪農振興第三条の規定に基づき、農林省は全国31か所の集約酪農地域を告示。山梨北巨摩郡、長野諏訪、南佐久郡両県にわたる八ケ岳山麓集約酪農地域18市町村が指定される
1956年 昭和31年 3月 財団法人キープ協会設立を認可
9月30日 清里村が高根村に編入。同日清里村廃止
10月1日 町村合併により、清里小、中学校がそれぞれ高根東北小( 同校八ヶ岳分教場) 、高根東北中と改称
山梨交通バスが韮崎-清里駅間の路線バスを開通。当初1日4往復
1957年 昭和32年 1月5日 国の集約酪農地域の指定を受け清里の酪農家を目指す若い農民が「清里酪農研究会」が発足。初代会長に奈良靖夫が選出される。以後毎月、定例研究会を開催し清里酪農を本格的に展開する
4月 ジョン・ロックフェラー4世が、ハーヴァード大学を休学し、東京国際基督教大学に留学〜1959年まで。ラッシュの影響やラッシュの友人エドウィン・ライシャワーの勧めによる
ハーヴァード大学卒業後、平和部隊に参加する
清泉寮本館再建、清里聖ヨハネ保育園開園
八ヶ岳アウトリーチ・ステーション(弘道所)活動開始
11月 小河内ダムが完成。水没農家945世帯の移転と87名の尊い犠牲のもと、19年余りの歳月と約150億円の総工費を費やした
1958年 昭和33年 山梨県林務部が清泉寮の成功をモデルに県有林活用のため「学校寮区」を開設。東京教育大学学校寮が入居。清里に学校寮ブーム起こる
1959年 昭和34年 4月1日 高根東北小学校八ヶ岳分教場は、本校より分離し八ヶ岳小学校として独立する
4月29日 清里駅、清泉寮、清里農村センターを舞台に撮影された映画『男が爆発する』(舛田利雄監督、日活)が公開される。石原裕次郎主演、二谷英明、淺丘ルリ子、北原三枝。八ヶ岳高原がキリスト教主義にもとづく酪農のユートピアとして全国に名前を知られるきっかけとなる。ただし、映画の舞台設定は清里ではなく「佐久平」だった
11月10日 米国CBSラジオがラッシュを特集する番組「隠れた革命」を放送。ニクソン副大統領、天野山梨県知事らが出席し、清里農村センターは、アメリカ人が誇るべき国際貢献事業、ラッシュは「ミスター・アメリカ」と称賛
井上靖の新聞連載小説「ある落日」が刊行。雪の八ケ岳山麓での男女関係の愛と死を描く。この小説をきっかけに清里原野での自殺相次ぐ
輿水油店が開業(輿水順治)。清里で最初のガソリンスタンド
1961年 昭和36年 3月2日 第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディが米国の青年ボランティアを開発途上国の農村開発に派遣する「平和部隊」の設立を発表。日本で農村開発に取り組むラッシュの清里農村センターなどがモデルとなる
1962年 昭和37年 清里農村センターに松本滝蔵記念ユースキャンプ場、レノックス野外礼拝所開設。
経営学の世界的権威学者であるピーター・ドラッカーが清泉寮を訪問。清里農村センターの支援を表明。昭和40年代を通じて在米キープ後援会の役員として清里を支援
1963年 昭和38年 4月10日 清里農業学校が開校。初代校長ポール・ラッシュ
11月22日 ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺される
1964年 昭和39年 4月 高根町が国民宿舎美し森たかね荘を開業
7月 朝日が丘の谷口牧場が民宿を始める。牧場民宿の先駆け
1965年 昭和40年 11月12日 山梨交通が「八ヶ岳パンテスコープスケートセンター」をオープン。首都圏からのスケート客でにぎわう (1981年3月閉鎖」
1967年 昭和42年 清里民宿組合が発足。初代組合長に小須田正市氏を選出。組合員4軒。民宿経営が軌道に乗る。
清里農村センターに「ケネディ大統領記念総合運動場」が落成。「平和部隊」を創設したケネディに感謝し追悼する記念施設。陸上自衛隊第32施設隊が施行し、立教大学生の勤労奉仕により完成
小海線のディーゼル電化が完成(蒸気機関車の終わり。現在清里駅前に記念のSL機関車を展示)
1970年代

1980年代
女性向けファッション雑誌『an・an(アンアン)』(平凡出版から1970年)『non-no(ノンノ)』(集英社から1971年)が相次いで創刊。清里が女子旅の特集に取り上げられるようになり、若い女性を中心に観光客が急増する(アンノン族と呼ばれる)。清里にはタレントショップや民宿、ペンションが立ち並ぶなど観光地化も進み、バブル期の1970年代中期〜1980年代には清里駅前商店街は「高原の原宿」と呼ばれるほどのブームになった
1969年 昭和44年 国道沿いにドライブイン清里がオープン(舩木常治)。清里初のドライブイン観光施設。後に喫茶店ロックと改称
清里民宿組合が設立。初代組合長に小須田正市氏を選出。組合員4軒。民宿経営が軌道に乗る
1970年 昭和45年 キープ乗馬会発足
1971年 昭和46年 八ヶ岳地区国道沿いにロックが開店(舩木上次)。清里で最初の喫茶店。後にこの店で研修した白倉徳三が「ミルク」を開店。清里の喫茶店ブーム起きる
1973年 昭和48年 清里観光振興会が設立
8月 八ヶ岳カンティフェアが終幕(20回を重ねる)
念場ケ原開拓農業協同組合が解散登記し、一般農協に移行(清里開拓時代の終わり)
山梨県が八ヶ岳少年自然の家を朝日ヶ丘に開設(置県百周年記念事業)
1974年 昭和49年 4月1日 高根東北小学校と八ヶ岳小学校を統合し高根清里小学校となる。新校舎を旧八ヶ岳小学校跡地に置く
8月 八ヶ岳カンティフェアが第20回をもって中止となる。
1976年 昭和51年 7月 清里キープ乗馬会の石黒建吉選手がモントリオール五輪に日本馬術代表として出場
清泉寮ソフトクリーム販売開始。バブル期には年間100万個以上を販売し、清里のイメージを代表する人気商品となる
八ヶ岳横断有料道路が供用開始。路線は高根町清里から中央道小淵沢インターを結び長野県諏訪郡富士見町まで。八ヶ岳横断道、八ヶ岳高原ラインとも呼ぶ。2001年に無料開放
1977年 昭和52年 清里高原のペンション1号「はあと」がオープン。オーナー山田博幸は脱サラ銀行員。脱サラによる清里ペンション・ブームの先駆け。その後10年で清里のペンションは100軒を超え、山梨県で最大のペンション観光地となる
マンガ「続 年下のあンちくしょう」吉田まゆみ作に清里駅、喫茶ミルク、小須田牧場、清泉寮が登場
1979年 昭和54年 12月12日 ポール・ラッシュが東京聖路加国際病院で死去、82歳。遺骨は清里聖アンデレ教会に眠る
1980年 昭和55年 1月 八ヶ岳地区開拓農家が入植40周年記念事業として八ヶ岳興民館を清里小学校前に建設。安池興男が最後の資金として1000万円を拠出。館名に「興男」の一字を冠した
清里・野辺山で撮影されたグリコアーモンドチョコレートのCM(松田聖子・田原俊彦共演)が話題となる
1981年 昭和56年 清里聖ルカ病院が閉鎖
1982年 昭和57年 清里高原ペンション組合が設立。(清里ペンションブームの最盛期)
1983年 昭和58年 2月1日 安池興男が死去、79歳。せい夫人とともに八ヶ岳共同霊園に眠る(分骨)
1985年 昭和60年 山梨県林務部が県有林高度活用事業「清里の森別荘地」を借地権分譲で売り出し。小海線北部に広がる県有林約200ヘクタールを県の単独事業として整備した。昭和63年までに約800区画を販売
1986年 昭和61年 7月2日 山梨県企業局が念場原に総合スポーツ・レクリエーション施設「丘の公園」を開設。2004年4月から、株式会社清里丘の公園が指定管理者として管理・運営を行っている
1988年 昭和63年 3月 大門ダム(清里湖)完成
4月 峡北地域広域水道企業団が高根町浅川地先の大門川に建設した大門ダムが完成。高根町、大泉村、長坂町、小淵沢町に1日1万3千立方mの水道用水供給事業を開始。有史以来の八ヶ岳南麓の水問題が解消する
10月 第1回ポール・ラッシュ祭〜八ヶ岳カンティフェアを開催。(八ヶ岳カンティフェアが復活)。キープ協会と八ヶ岳4町村が共催し、八ヶ岳山麓を代表する観光イベントとして発展
平成時代 1990年 平成2年 キッツメドウズ大泉・清里スキー場がオープン(旧山梨県営スキー場)。清里と名乗ったが地番は大泉村西井出だった
7月 清里萌木の村で「第1回清里フィールドバレエ」が開催。日本で唯一、長期間にわたり連続で上演されている野外バレエ公演として夏の風物詩となっている。
1994年 平成6年 11月28日 清泉寮向い側に山梨県立八ヶ岳自然ふれあいセンターがオープン(※ キープ協会敷地内ではあるが住所は大泉町西出石堂)
1996年 平成8年 4月1日 キープ協会がポール・ラッシュ記念センターを開設。オープニングセレモニーには高円宮殿下が臨席。ラッシュの理念と実践を紹介。また、ラッシュがアメリカンフットボール競技を日本に紹介したことを記念し、日本アメリカンフットボールの殿堂を併設する。
1998年 平成10年 6月22日 山梨県が清里高原有料道路が供用開始。観光地・清里の国道141号の渋滞を緩和するバイパス道として、清里と中央道自動車道長坂ICを連絡。2005年6月7日より無料開放
道路建設の残土埋め立てによりキープ協会内にポール・ラッシュ記念フィールドが開設
2000年頃 清里駅周辺の観光ブームが沈静化し、タレントショップなど閉店が相次ぐ
2004年 平成16年 11月 北巨摩郡に所属する町村のうち、小淵沢町を除き、長坂町・高根町・大泉村・白州町・武川村・須玉町・明野村の七町村が合併して北杜市となる
2005年 平成17年 8月31日 天皇、皇后、紀宮が清里に行幸啓される。ポール・ラッシュ記念センターを訪問し、ラッシュを追悼。天皇陛下は清泉寮で昼食会を主催、キープ協会役員、地元首長らをゲストに招き、食事をともにされる
2008年 平成20年 6月21日 北杜市高根町清里で撮影された映画「西の魔女が死んだ」が全国一斉ロードショー。長崎俊一監督、サチ・パーカー、高橋真悠出演。ロケセットは清泉寮近くに特設された
2012年 平成24年 萌木の村にて、ポール・スミザーによる庭づくりが始まる
2014年 平成26年 3月〜9月 NHK連続テレビ小説「花子とアン」のオープニングで山梨県立八ヶ岳少年自然の家(清里)のヤッホーの丘がロケ地となる
2016年 平成28年 6月6日 ピース又吉作・吉岡里穂主演の清里高原PRムービー「清里が笑わせてくれました」YouTubeにて期間限定で公開される
8月8日未明 萌木の村レストランROCK(ロック)全焼。翌年6月9日 全国からの応援によって再建
2017年 平成29年 7月 夏フェス「ハイ・ライフ八ヶ岳」がサンメドウズ清里スキー場にて開催される
2018年 平成30年 2月24・25日 「北杜シェフズバル2018」が牧場通り コート・ドゥ・ヴェール・オーベルジュ牧草広場にて開催される
2019年 平成31年 4月5日 旧高根東小・旧高根北小・旧高根清里小が統合し、北杜市立高根東小学校が開校する。新校舎は北杜市高根町村山北割に置く
令和時代 2020年 令和2年 4月4日 旧高根清里小跡地に八ヶ岳コモンズオープン

 

清里高原は古くは念場原と呼ばれ、八ヶ岳南麓南傾斜面に広がる。開拓の歴史は1万6千年前の旧石器時代までさかのぼり、先住民が文化的な道具をもって居住していた痕跡が残されている。現在その古代遺跡は「丘の公園内遺跡群」と呼ばれている。このことは、ユーラシア大陸に生まれた「世界の四大古代文明」(メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国黄河文明)が紀元前3000年前後とされるため、それより遥かな超古代に清里高原では、先住民が世界で最古ともいえる社会的で文化的な暮らしを営んでいたことを意味する。この分野の研究はデータが不足していて、さらなる研究が必要となっている。
その中を南北に佐久甲州街道(佐久往還)が貫通し、甲州街道韮崎宿から若神子(須玉)を経て、弘法坂を上がり、平沢峠を越えて長野に入り、 八ヶ岳連峰のふもとを千曲川沿いに中山道岩村田宿に至る。
甲州街道と中仙道を結ぶ佐久往還の甲州最後の宿場として長沢宿があり( 現在の北杜市高根町長沢)、信州平沢宿(長野県南牧村)までの間は樫山村念場原が広がり、江戸時代には無人の入会地となっていた。明治8年に樫山村、浅川村が合併して、清里村が誕生。1935年、国鉄小海線の全線開通により、鉄道を中心とした交通運輸へ移行し、新たな山麓の農林業・観光開発が進む。

タイトルとURLをコピーしました